誰しも自分のことは分からない

ここ最近で読んだ漫画の中で、ぶっちぎりのマイ・ベストは『サルチネス』だ。

 

『行け!稲中卓球部』を生んだ古谷実によるギャグ漫画で、全四巻の中編作品。これを読んでからというもの、気がつけばこの漫画のことをよく考えている。

 

登場人物はそれぞれ何かしらの問題を抱えていて、見事なまでに各々派手にこじらせている。主人公の中丸タケヒコは幼少期のトラウマから独自の思索の道に突き進み、31歳まで引きこもり。かろうじて人との会話はできるが、一般的な常識はあまり持ち合わせていない。

 

そんなタケヒコがひょんなことから引きこもり生活をやめ、ひとりで冒険に出る。社会的自立という冒険だ。途上、彼は実に様々な他者と出会う。その全員がまた個性的というか、変わり者というか、ひどく生きづらそうな人生を送っている面々だ。

自身もかなりの変わり者のタケヒコが、毛色が異なる強烈な変わり者たちとの交流を通じて、なんとなくひとまわり大きくなっていく。大笑いあり、涙ありの名作だ。

 

さて、私がこの作品についてまず一番に思うのは「みんないいやつ」ということだ。そう、それぞれクズだったり情けなかったり思い込みが強すぎたりするけれど、なんだかみんないいやつなのだ。致命的にこじれてはいるが、心根が素直でやさしい。情にもろく、すれていない。決して自分に嘘をついたりごまかしたりはしない。ただ、まっすぐでありすぎるゆえに、激しく壁にぶつかってこじれている。つまり、ひとりで考えすぎてみんな行き詰まっているのだ。

 

この作品では、そんな全員がお互いを鏡としてそれぞれの行き詰まりに活路を見出していく。そこがまた泣ける。みんな、ほんとうは苦しんでいたのだ。わけのわからない生き方をしていたのは、そうある以外に生き続ける方法がなかったからだ。

 

そして、登場人物たちは自分以外の者には驚くほど的を射たことを言う。互いのこじれの構造を、見事に互いが見抜いている。タケヒコも、“谷川”や“サイキック”に対しニーチェばりの鋭い指摘をする。そのくせ、自分は自身の指摘に反することを平気でしている。読者は「タケヒコ、お前もやで」と思わずツッコミを入れる。

 

しかし、そこがこの漫画の真髄だと私は思う。そう、みんな自分のことは分からないのだ。他人のことは両目で認識できるから、客観的な観察もできるだろう。しかし自分の姿は片目でも見ることができない。だからこそ、私たちには他者が必要なのだ。ひとりだけではやはり行き詰まる。互いが互いを鏡とするから、見えなかった自分の姿が見えてくる。チャップリンの可笑しな人間劇が喜劇たりうるのは、それを見る観客がいるからだ。

 

私はこの漫画を読んですっかり感化されてしまった。そして、これまで自分ではよく分からなかったあるものについて、 私は自分を頼ることを止めた。

 

そうだよな、自分のことなんて自分じゃほとんど分からないよなと深く納得してしまった私は、「自分に似合う髪型」、「自分に似合う化粧品」の一切を以来人任せにしている。

 

髪型は、美容師の妹に「似合うならなんでも」とだけ告げる。化粧品に関しては、ある日偶然出会った化粧品売場の腕利き美容部員に一任している。おそらく同世代くらいの美容部員、山岡さんはほんとうのプロだ。筋金入りのコスメオタクで、既成の化粧品という無限の選択肢の中から私の顔にピタリと合うものを寸分のズレなく選んでくれる。私には到底できない神業だ。

 

そんな山岡さんは、いつも選んでくれた化粧品で私の顔を誰よりきれいに仕上げてくれる。あくまで化粧が、ということだが自分の顔ながら思わずうっとりするほどの出来だ。彼女がこれまた褒め上手で私はついつい財布の紐がゆるんでしまう。しかしそれが嬉しい。化粧品の数万など安いものだと思わせてくれる。まさに腕利き。キャバクラ通いするおじさんの気持ちはこういうものなのだろうか、と帰りにいつも思う。そうであれば、悪くないものだ。

 

そんな山岡さんの好きなところが実はもう一つある。それは彼女自身の顔に施された化粧だ。ここまでの腕利きにもかかわらず、山岡さんは自分の化粧があまり上手ではない。

 

彼女の顔を見るたびに、ああ、自分のことは自分では分からないものだよな、と私はなんだか嬉しいような安心するような気持ちになる。小さな化粧台の鏡をはさんで、このように私は人と生きることの謎と喜びをいつも味わうのである。