生活を営むということ

ある晴れた日曜日、ひとりで道を歩きながらふと幸福を感じた。

近所のクリーニング屋で洋服を引き取った帰り道だった。

空がさきほどよりずっと青く、澄みわたっているように見えた。

 

手には預けていた愛用のトレンチコートと、ラインが気に入っているシルクのワンピース、それに長年着ているジャケット。

大事にしたいものを、大事にできている。

たぶん、それがこの幸福感を生んだひとつの要因だったように思う。

それから、おそらく、生活。

その日は朝から部屋の掃除をし、洗濯物を洗濯機に入れ、好きな音楽をかけながら熱いコーヒーを淹れた。コーヒーを飲みながら洗濯が終わる音を聞き、晴れたベランダに丁寧に洗濯物を干した。

気持ちよさそうに風に揺れる洗濯物を横目に、窓際で本の続きを読んだ。

そして、きりの良いところで近所のクリーニング屋に向かった。まだ午後3時だった。

 

何度めかの一人暮らしを始めて2年が経つ。

この幸福をずっと待っていたように思う。

 

「『丁寧な暮らし』なんて、嘘っぱちだ」みたいなことを誰かが言っていた気がする。たしか、鈴木いづみだったと思う。

20代前半の頃、これにひどく共感する私がいた。そして、それを地で生きていた。

丁寧な暮らしなんて、嘘っぱち。

故郷を離れ、東京にいながら自分の家すら持っていなかった。かっこいいことなんてひとつもなくて、さも当然のような顔をして知り合いや男の家を転々としていた。そんな自分を情けないなんて思うものなら、生きていられなかったように思う。

 

何も持ちたくない、何にも関係したくない。

そうぼんやりと思っていながら、でもほんとうはじっと何かを待っていた。ただ、霧みたいに曖昧模糊とした「違和感」の中で何かを待ち続けていた。

 

それから数年が経ったある晴れた日曜日。なんてことはないクリーニング屋の帰り道で、ずっと待っていた何かと出会えた気がした。

 

「おそらく歴史に名前なんかのこらないとわかっていても、やはり皿は洗わなければならず、日々をくりかえしていかなければならない。人間のほんとうの強さは、そういう部分からきているのではあるまいか、とわたしはおもっている」

これも、鈴木いづみが言った言葉だ。

 

私は、最後の部分にどうしても胸が熱くなる。

「人間のほんとうの強さは、そういう部分からきているのではあるまいか、とわたしはおもっている」

 

生活を営むこと、それは習慣のなかに身をおくことだと私は思う。

そして、習慣とは積み重ね以外の何物でもない。

今朝コーヒーを淹れれば、明日もコーヒーを淹れる。

今日は昨日のつづきで、明日は今日のつづきということ。

終わるまでつづく日々に、習慣を通じて絶えず自分を関係させること。

自分が強くならなくては、これはやっぱり続けられないように思う。

そして、これを続ける中で身につく強さもたしかにあるように思う。