言葉より大事なもの

ジャズ・シンガーエラ・フィッツジェラルドが、あるときこう質問された。

「エラ、ジャズってなんだい?」

エラはすこし考えて、ゆっくりと口を開いた。

そして、彼女は心躍る魔法のようなスキャットをはじめた−

 

 

20代前半のころ、とても好きな雑誌があった。

『WIRED』というテックカルチャー系の雑誌で、元はアメリカで創刊され今は各国で独自に刊行しているタイトルだ。『WIRED日本版』(以下、『WIRED』)は『VOGUE JAPAN』や『GQ JAPAN』といった華やかな雑誌を出版しているコンデナスト・ジャパンという出版社が発行している。

 

『WIRED』は今も発行され続けているが、私が熱心な読者だったのは一代前の編集長、若林さんがいた間だ。

ガチガチの文系でテクノロジーなんて門外漢もいいところだった私が『WIRED』に強烈に惹かれたのは、やはり若林さんの手腕に依るところが大きいと思う。

 

雑誌では先端テクノロジーを扱っているにもかかわらず、私はいつも質の良い物語を読んでいるような気分がしていた。若林さん自身がもともとテックの門外漢で、文系の出自だったことも大きいように思う。

現代テクノロジーの流動や進化は、彼の目を通して見ることで、人間の在りようの変化というひとつの「物語」に変わっていた。そして良い物語が必ずそうであるように、そこにはたしかなリアリティーの手応えがあった。

 

若林さん率いる『WIRED』チームは、教育や音楽、コーヒーなど毎号おもしろいテーマを掲げては、ほかではちょっと見ないユニークなやり方でテーマを追究していた。発売日が近づくとソワソワするほどに、私は彼らの探求の足跡をたどることがとても楽しみだった。待ちに待った発売日になると、読み応えがありすぎる一冊を丸一日かけて咀嚼した。こんな楽しみは当時ちょっとほかにはなかった。

 

そんな『WIRED』で私がいちばん好きだったのは、巻頭の「Editor’s Letter」、つまり編集長である若林さんによる短い文章だ。

雑誌中の地の文ではない、若林さん自身の文体で書かれる文章に当時の私は心を奪われていた。自由で、知的で、そして何より優しかった。こんなに優しい文章を書く人がいるのだなあと深く感動した。

 

そんな深い感動のただ中にあった23歳の私は、しかしながらそれを表現する言葉を持たなかった。何かをうまく言葉にするというのは、対象との距離を適切にはかることに等しい。しかし、当時の私はまだ自分自身を含め物事の距離をうまくはかる物差しなど持ち合わせていなかった。

 

そんな若き日の私はある日、別の雑誌編集をしているおじさんと『WIRED』について雑談をする機会があった。私は興奮気味に若林さんの巻頭文が『WIRED』のなかでもほかのどの文章とも違うのだと話したように思う。「ほかのどの文章ともちがう」。ほかにうまい言葉が見つからず、たしかそう表現したと思う。するとおじさんは、とても嫌な表情を浮かべてこう言った。

 

「あれはエッセイだからね。ほかのは記事文や批評文だ。そりゃあ好きなこと書いてるんだからほかの文章とは違うよ。当たり前じゃないか」

そう吐き捨てるように言い、エッセイと記事文の区別もできず、わけもわからず陶酔している私の幼稚さをも指摘した。私はとても悲しかった。彼に言われたことより、自分が何もうまく伝えられなかったことがほんとうに悲しかった。

 

「きっと私が伝えたいのはそういうことじゃない。でも何を言えばいいんだろう」。結局その後ただのひとつも言葉が浮かばなかった。そして表参道から渋谷まで、夜道をひとり大泣きしながら歩いて帰ったことを覚えている。

 

先日、筒井康隆原作、今敏監督のアニメーション映画『パプリカ』を観た。

少々精神分析的な内容のSFストーリーで、90分まったく飽きずに楽しんだ。夢と現実の境界という自明性に疑問を投げかけ、ひいては人間の正気と狂気の境界をあやふやにする試みが恐くもあり興味深くもあった。

 

この作品を観終わって私が考えたのは、「線引き」ということだ。はたして正気と狂気に、そもそも明確な線引きなどできるだろうか。社会という条件下ではある程度は可能かもしれないが、しかしながらそれは大いに可変的かつ流動的に思える。そう思うと、言葉による分かりやすい概念分けより、おかしくない/何かがおかしいという感覚的な選別のほうがよりリアリティーを伴って腑に落ちるのではないだろうか。

 

そこまで考えたとき、前述の若林さんの巻頭文のことを思い出した。

今や23歳ではない私はエッセイや記事文、批評やフィクションといった文章カテゴリーの存在について大まかには把握しているように思う。読めばなんとなく、それぞれどのカテゴリーに位置するかも言葉にできるだろう。

 

しかし、それが何だというのだろう。ある素敵な文章が、素敵であること以上の意味づけなど必要とするだろうか。

あのとき、私はたしかにエッセイなどという概念を知りもしなかった。しかし今思えば、あれがエッセイだったから私にとって「ほかの文章とちがった」わけではないように思う。私はほかのどの文章でもない、あの文章にとても惹かれていた。きっとあの魔法のような文章を通すことで私は最も心地よいなにかに触れられた。それだけなのではないかと思う。

 

抱えるものを言葉にできず、あの夜悔しくて私は大泣きした。しかし、私はきっと言葉以上に大事なものをちゃんと持っていたのだと思う。無知でどうしようもなく若かった私だけれど、それだけは認めてあげたいと思う。