スナフキンに恋して人間と失恋した話
むかし、スナフキンに恋したことがある。
正確に言えば、スナフキンみたいな人に恋をした。
彼は、どことなく他の男の子とは違う雰囲気を持った人だった。何にも執着がなさそうで、私の目には風のような自由を帯びて見えた。彼をひと目見て、すぐに私から声をかけた。めったにそんなことはしないので、自分でも驚いた。
それから何度かふたりで出かけ、たくさん話をした。口下手な私が、びっくりするほどたくさんの話をした。自分の身の上話をし、私のことをたくさん知ってほしいと思った。彼の身の上話を聞き、彼のことをたくさん知りたいと思った。
要するに、私は恋をしていた。
ふたりはすぐに恋人になった。彼は実に教養のある人だった。互いの好きな音楽の話、本の話、映画の話。私たちには伝えたいこと、共有したいことが尽きることなくあった。
その頃、私は若さもあって精神的に落ち込みがちだった。おそらく、それで救いを求めるようにたくさんの本や彼の広い教養にすがっていたように思う。そんな私に、彼はこう言った。
「長い旅行に必要なのは大きなカバンじゃなく、口ずさめるひとつの歌さ」
下を向いていた私は、顔を上げた。「誰の言葉?」
彼は笑った。「スナフキンだよ」
私は、彼と一緒に暮らし始めた。
しかしながら、彼との暮らしは長くは続かなかった。
一緒にいる間は、とても幸福だった。だけど、それはきっと生活ではなく生活のまねごとだったのだと思う。そして、私がほんとうに求めていたのは「生活」そのものだった。
もちろん彼はスナフキンではなく、ひとりの人間だった。誰でもそうあるように、彼には彼なりの問題があった。
そして、彼の問題と私の問題を一緒に抱えながら生活にたどり着くことはひどく難しいように思えた。
おとぎ話ならいい。生活なんてしなくとも夢は夢のままであり続け、美しさは変わらず美しさであり続ける。しかし、残念ながら私たちは現実を生きている。
ウディ・アレンが言うように、私たちはいつも夢と現実の選択を迫られる。夢を選ぶのは楽しいけれど、それは「正気の沙汰ではない」。それであれば現実を選ぶほかないけれど、現実にはいつだって落胆させられる。
スナフキンが見せてくれた夢は、実にいいものだった。人は愚かな若い過ちと言うかもしれない。それでも、私はあのとき、あの夢を見る必要があったように思う。そうでないことには、きっと目の前の現実なんて生きられはしなかったはずだ。