「普通」はむずかしい

何年か前に、小説を書こうとしたことがある。本が好きで、文章を書くのが苦じゃない人なら一度はやったことがあるのではないだろうか。

 

私の場合は、書いたものが小説の体をなす前にあきらめてしまった。理由は簡単だ。物語を書き進められなかったのだ。

 

劇的な事件や、その場限りの1シーンならなんとか形にできる。しかし、シーンとシーンの間をどうしても書けない。今がどこにも移行せず、極端にいえば今日が明日にならない。つまり、物語のなかでうまく時間が流れないのだ。結果的に、各シーンはほかのシーンと結びつかず、それぞれがぷかぷかと浮遊していた。多分に劇的な要素だけを抱えて。

 

かろうじて短編小説なら書けるかとも思ったのだが、何かが腑に落ちない。腑に落ちないまま、何を書くでもなく自然と数年が経った。

 

そしてこの数年何をしていたかというと、特になにもしていない。いや、もちろん何かはしているのだけれど、特筆すべきことは何も成していない。食べたり、寝たり、よくある恋をしたり、疲れてまた寝たり。そんなことをしているうちに数年が流れた。そう、数年が流れたのだ。

 

自分の人生をひとつの物語とするなら、そのほとんどの時間、私はかなり「普通」のことをして過ごしている。今夜だってほんとうは気になる男の子と素敵なデートをしたいのに、実際はコンビニで買ってきた惣菜を電子レンジで温めている。しかも元彼が置いていったユニクロのスエットを着て。

テーブルの上の本を小脇に押しやり、YouTubeで適当な音楽を流しながら、レバニラとエビピラフをプラスチックのスプーンで食べた。あとで箸を洗うのが面倒で、レバニラもスプーンで食べた。メニューの組み合わせも意味不明だが、なぜレバニラの横に『世界拷問史』が置いてあるかも意味不明である。

 

と、おそらくどこにも見られる日常風景をつらつらと書き連ねたが、しかしほとんどの場合、このようにして時間は流れるのではあるまいか。運命的な恋や親しい人の死のような大事件は、人生という時間軸で見ればほんの一瞬の出来事だ。もちろんそうした事件は単体でも十分物語たりうるが、私には少々ドラマティックにすぎるように思う。

 

先日観た映画『愛がなんだ』で、すこし気になる役者がいた。好きな女に便利に使われる気弱で情けない青年ナカハラを演じた若葉竜也という役者だ。

鑑賞中は彼の演技のあまりの「普通さ」に、彼の存在を気にもしなかった。しかし、じわじわと彼のことが気になりだして後日彼のインタビュー記事を読み漁った。すると、こんなことが書いてあった。

 

「役者にとって、感情をあらわにするような演技ってすごく快楽だったりするんです。相手への思いが伝わらず、感情的になってボロボロ涙を流して気持ちを吐露するというやり方もあったと思うのですが、そっちにいくとナカハラという男が問題を解決できる人物になってしまう。それだとあまり共感できないと思ったんです。とにかく普通の一人の人間、誰もが感じるものを生々しく演じようと思ったんです」

 

私のコンビニ飯と彼の芝居を並べるもどうかと思うが、しかしレバニラを食べながら私は彼の言葉について深く考えざるをえなかった。

 

私が書けなかった小説には、きっと本来あるべき「普通」が欠けていたのだろう。 若葉さんが言うように、大げさなものは簡単で、しかしそれがリアルかというと必ずしもそうではなかったりする。大抵の人間は普通に生きて普通に死んでいく。

たとえ劇的なことが起こったとしても、うまく立ち振る舞えるとは限らないし、かっこわるいことのほうが圧倒的に多い。でも、そんな普通のなかにこそ私たちのリアルはある。

 

私たちは、つい大仰なことや分かりやすい理想にばかり意識を向けてしまう。大部分の時間を普通に過ごしているのに、そんな何でもない自分をほんとうに認識するのは実は難しかったりする。

 

しかしながら、元彼のスエットを着て食べるコンビニのレバニラも、ちゃんと味わえばわるくはないものだ。たとえ素敵な服を着て心ときめくデートに行けなくとも、それなりにわるくない人生はこうして進んでいくものである。