自分を大事にするって、つまり「何もしないであげる」ってことなんじゃないかって話

今朝起きて、すこし困った。

 

「今日、何しよう」、と。

 

そもそも予定を立てるのがあまり好きではない性分なので、普段からわりと暇なのだが今週末は殊更に暇だった。予定といえるものが微塵もなかった。

 

そこで、ベッドで横になったまま、「本日上映中の映画」を携帯電話で調べた。都内の好きな映画館から順に検索した。

 

渋谷の文化村「ル・シネマ」。めぼしい映画はなし。

下高井戸の「下高井戸シネマ」。こちらもあまりぱっとしない。

新宿の「テアトル新宿」。ここで眠気が覚めた。角田光代原作、今泉力哉監督作品の『愛がなんだ』。知らない作品だ。けれど、何かに強烈に惹かれた。そして土曜日には珍しく、そのままむくっと起き上がり、部屋の掃除を済ませ、準備をして昼前に家を出た。夕方から降るという雨に備えて、ビニール傘を持っていった。

 

上映開始は夕方4時。まずは新宿紀伊国屋に行き、原作の文庫本を買った。ついでに見つけたフィッルジェラルドの後期作品短編集も買った。

 

そのまま、新宿東口の西武喫茶店へ。私は煙草を吸わないがいつも喫煙席に座る。西武は喫煙席フロアのほうが喧騒的で、本を読むにはそれが不思議と心地よい。

ホットコーヒーを注文し、さっそく単行本を開く。ふと角川文庫は久しぶりだなあと思い、そういえばここ数年はもっと堅苦しい本ばかり読んでいたなあと気づく。

 

映画が始まるまで3時間。ぎりぎり読み終わるくらいか、と一行目に目を落とした。

 

3時半。読み終わった本を閉じ、席を立って映画館に向かう。晴天に傘を持って伊勢丹沿いを歩く私の胸は、すこし期待で膨らんでいた。

 

テアトル新宿のいいところは、後部座席から見た劇場の景色だ。小さな子どもに映画館の絵を描かせたらきっとこうなるよな、という光景が広がっている。とても原風景的な映画館だ。

後方の席に着き周りを見渡すと、若いカップルや女性2人組が多く見られた。漏れてくる会話によると、どうやら主演の俳優目当ても多いようだった。

 

映画を見終わって、なんだか少しだけモヤが晴れた気がした。

そして、「自分を大事にすること」について考えた。 

 

主人公のOLテルちゃんは、自分を好きになってくれないマモちゃんに片思いしている。片思いといっても、2人はときどき会って身体の関係だって持っている。マモちゃんは、必要なときだけテルちゃんに連絡してはご飯を食べたりする。テルちゃんはマモちゃんが大好きで、自分の生活や人生なんてほっぽり出してマモちゃんをすべてにおいて最優先する。でも、マモちゃんはテルちゃんのことなんてこれっぽっちも考えていない。それどころか、他に好きな女性までできる始末。でもマモちゃんはマモちゃんで好きな女性にとっての都合の良い男でしかいられない。まあ、よくある話といえばそうなる。

 

しかし、この話のおもしろいところは、みんながみんな何かを見失っているということだと思う。見失ったまま、でもなんだかまっすぐにみんな傷ついていく。

 

はたして、みんなが見失っているものとは何なのだろうか。

 

原作の解説には、こんなことが書かれている。

「テルちゃんはマモちゃん以外のたいていのことを『どうでもいい』に分類しているが、無意識のうちに一番『どうでもいい』に分類してしまっているのは、自分自身ではないかと思う」

 

「もっと自分を大事にしていいと思う」

そう私に言ったのは、実の妹だった。むかし、私もテルちゃんみたいな恋をしていた。大好きなのに、恋人にはなれない。彼が何よりも一番で、何よりも大事にしたいのに、相手は私のことを同じようには思ってくれない。

 

妹にそんなことを言われたとき、正直むっとした。正論めいたことを言わないでくれ、とも思った。私は十分、自分を大事にしている。傷つく恋だと分かっていても、今は好きなのだから会いたいなら会えばいい。相手に大事にされることだけが、自分を大事にすることじゃないはずだ。自分が望むことをしてあげる。それの何が悪い?

 

でも、結局何かが分からないまま、その恋は終わった。 

そして、今すこしだけ分かったことがある。

 

自分を大事にする。ある場面においてそれは、自分に何かをしてあげるのではなく、「何もしないであげる」ことじゃないのだろうか。

 

テルちゃんはたしかにすこし愚かだ。最低なマモちゃんなんかに自分を預けている。とても弱くて寂しがりやで、想像力に欠けていて、自分勝手な理想を持ちすぎる。そのうえ、マモちゃんといれば、そんな欠点が補完されて自分が完ぺきになれると思い込んでいる節がある。そんなの、マモちゃんにしてみたら到底受け止めきれない。

 

だけど、そんなの誰だってそうじゃないのだろうか?

 

誰だって弱くて、寂しがりやで、想像力に欠けていて、自分勝手な理想を持ちすぎる。しかし、それは自分にとって受け入れがたい事実だ。歳若ければなおのこと。

だから、人は何かをしてしまう。完全になりたくて、自分に何かをしてしまう。

 

それは時に、片思いだったりする。現実の情けない自分を置いてけぼりにして、理想の人に恋をしたりする。あくまで、自分がなりたい理想像に近しく見える人に。自分の目には強くてかっこよく映る人に。

 

でも、そんなスーパーマンみたいな人はきっといない。生きていれば誰にだって寂しい夜はあるし、情けない恋だってする。

 

不完全な自分を不完全のままでいさせてあげる。何も足したり引いたりせず、自分の愚かさも正しさもぜんぶそのままで受け入れてあげる。それを、私は見失っていたように思う。そして、テルちゃんやマモちゃんも、私と同じものを見失っているような気がする。

 

久しぶりに手にした角川文庫。ここでも、私はずっと背伸びしていたことに気付かされる。そして思わず微笑んでしまう。そんな自分が愛しいと、今ならすこしだけ思える。

 

持って行った傘は、結局一度も開かずに帰ってきた。