きっと何より記憶に残ること

先日の晴れた金曜日、会社の昼休みにひとりランチに出かけた。牧歌的な雰囲気が気に入っているトラットリアで焼き立てのマルゲリータピザを食べた。食後のデザートとコーヒーを済ませ、一息ついて会社にもどろうとした。

 

帰り道に木陰の歩道を歩いていると、右手に青山公園が見えた。広い公園にはところどころに木のベンチがあり、会社員らしきおじさんたちがぼうっとしたり、昼寝をしたりしている。

 

いつもならそのまま通り過ぎるのだけれど、その日はなぜかその場で足が止まった。太陽がわずかに西に傾き、気持ちの良い風がそよそよと吹いていた。ふと、誰も座っていないベンチが目に入った。木漏れ日が小さく揺れ落ちるベンチのまわりには、背丈の低い青草がみずみずしく茂っていた。

「あそこに座って本を読んだら、どんなに気持ちいいだろう」

 

そう思ったが最後、もう会社には戻れなかった。私の足はベンチへと向かい、そのまま腰をおろして鞄から読みかけの本を取り出した。揺れる木の葉の間から白いページに落ちる光がこそばゆかった。足元ではすずめが数羽、元気に走り回っていた。

遠くから気持ちいいだろうなと思ったベンチでの読書は、思ったとおりにとても気持ちが良かった。

 

本を読みながら、私はむかし読んだエッセイをふと思い出した。村上春樹の『ランゲルハンス島の午後』という話だ。

中学生になったばかりの春のある日、村上少年は学校で生物の教科書を忘れて家に取りに帰らされる。素直に取りに帰ったものの、帰り道に川岸の芝生に寄り道し寝転んで空を見上げる。「『ぽかぽかとした』という形容がぴったりする、まるで心がゆるんで溶けてしまいそうなくらい気持の良い春の午後」だったそうだ。

 

「頭の下に敷いた生物の教科書からもやはり春の匂いがした。カエルの視神経や、あの神秘的なランゲルハンス島からも春の匂いがした。目を閉じると、柔らかな砂地を撫でるように流れていく川の水音が聞こえた。まるで春の渦の中心に呑みこまれたような四月の昼下がりに、もう一度走って生物の教室に戻ることなんてできやしない。1961年の春の温かい闇の中で、僕はそっと手を伸ばしてランゲルハンス島の岸辺に触れた」

 

たしか私がまだ小学生だったある日、どうしても学校に行きたくない日があった。風邪でもなんでもなく、なんだかどうしても行きたくなかった。たしかそれをお母さんに伝えたと思う。今日ばかりはどうしても学校に行きたくないのだと。怒られることを覚悟していた私に、母は笑顔でこう言った。

「じゃあ、今日はお母さんお友達と会うから一緒にいらっしゃい。女の子3人でランチしましょう」

 

それは冗談ではなく、ほんとうに母は私を連れて近所のレストランで友達とランチをした。平日の昼間に名札もつけず、ランドセルも持たず、私は母とその友達とランチをした。吹き抜けの店内には大きな窓を通して自然光が降り注いでいた。同級生のみんなが学校でいつもどおりの生活をしている間、私は給食なんかよりずっとキラキラしたランチセットを前に少しドキドキしていた。そして何より、なんだか泣きそうになるのをこらえていたように思う。

 

6年間も小学校に通っていたのに、一番覚えているのは学校に行かなかったあの晴れた日のことだ。勉強のことなんてすこしも覚えていない。そう思えば、いつか会社での出来事をほとんど忘れてしまっても、あの昼休みの公園での読書のことは長く記憶に残るのではないかと思う。

 

「知ってる?動物のなかで逃げないのって人間くらいなんだよ。猫だって近づいたら逃げる。いいんだよ、逃げたいときは逃げたって。動物としてまちがってない」

だいぶ昔、仕事に行きたくないとごねる私にそう言ったのは昔の恋人だ。

 

「動物としてまちがっていない」

ときどき頭の中で、不思議とこの言葉が反芻する。平日のランチにドキドキしていた小さな私は、大人になって今、そういうものかもな、と静かに思う。