諸悪の根源は

以前、かなり年上の男性と付き合っていた。

父親とほぼ同世代、つまり年齢的には「おじさん」の部類に属する男性だった。

彼の魅力の数は、彼の有り余る欠点に比べれば数えるほどしかなかったが、ひとつ記憶に深く残っているものがある。表情だ。

 

彼には、ある状況でのみ現れるとても素敵な表情があった。その表情には、私の心の奥深くにある扉を優しくノックするなにかがあった。

なんとも言えない、柔らかく、善良で、精神的な高みを感じさせるとても良い表情だった。人間の成熟の広大な可能性を感じるほどだった。そこには、私にはまだ到底たどり着きえない境地がこの世にはあるのだと、そう思わせる広がりがあった。

 

今思えば、どう好意的に見ても彼は人間的に優れているとはとても言えない人物だった。

どちらかといえば、一般的には低俗な部類であったように思う。

女が大好き、来るもの拒まず、去るもの追わず、自ら縁を切ることはない。いつでも門戸は開かれている。いわゆるサイテーの男だ。

 

しかし、どんなにサイテーでも女遊びがまかり通るのは、それなりの魅力があってこそ。かくいう私だって、そんなサイテーなおじさんに心底夢中だった。

とは言え、おじさんはやはりおじさん。

夕食の席でついお酒が進めば、いざという時にあちらが機能しない、なんてことはよくあることだった。

 

自宅で軽く飲み直し、さてそろそろなんて頃合いに、熱を帯びた視線が絡み合う。

しかし、彼の表情には一向に下心の色が現れない。

そして、静かにあの表情を浮かべて、優しくこう口にする。

「いやー、今日はね、たぶん何してもだめだと思う」

 

勃たないときのおじさんは、精神的に高い領域にいる人間の表情をする。

この世の道理をすべて受け入れたような器さえ感じさせる。

この世の善も悪もすべてを受け入れたような、達観の(あるいは諦観の)優しさがにじみ出ているのだ。

 

そんなおじさんとの決別を経てしばらく経った頃。

私の心の扉を再びノックする新たなおじさんが現れた。

それは、作家の村上春樹だった。

実際に会ったわけではない。たまたま彼の近影を見たとき、たしかに心の扉を誰かがノックした。

御年70歳。写真の中で彼は、幸福なおとぎ話のように柔らかい笑顔を浮かべていた。紅潮した頬は、波のない朝焼けのようだった。

 

茶店でその写真を見ながら、隣でコーヒーを飲んでいる女友達をよそに、私は温かい愛情の中にいた。

 

「おじさんもさ、ここまでの歳になると、なにか人類愛的なものを感じるよね」

私がポツリと言うと、彼女は横目で写真を見て、すぐに興味をなくしたようにコーヒーをすすった。そして、あまり興味がなさそうに、こう呟いた。

「うん。もう勃たない感じの男の無害感な」

  

そうか。私の心の扉をノックし続けていたのは、勃たない男の無害感だったのか。

 

巷では、諸悪の根源は男根にある、と言われている。

私も長らく、そういうものだと思っていた。

しかし、それはほんとうに、そういうものなのだろうか。

なぜならあのとき、勃たないサイテーなおじさんにも、一応それはついていた。

私はここで、この有名な思い込みをこう訂正したい。

 

「諸悪の根源は勃起」

 

人に思い込みはよくあることだ。

けれど、生きていく中で、自分の思い込みが違う様相を呈する場面に遭遇するのは、人生の喜びのひとつだと思う。

そういうとき、人生はわるくないと、私は思う。

 

「じゃあ女の賢者タイムは何時なんだ」問題

男の人には、なにやら「賢者タイム」なる特権的時間があるらしい。

女性の私が見聞きした情報によると、賢者タイムとはすなわち人間がもっとも哲学的になりうる崇高な状態および、それが持続するごく僅かな時間を指すようだ。

人間というのは元来とても愚かにできているが、しかしこの賢者タイムなる間だけは、人類は己の浅ましさから解放される。らしい。

とにかく、賢者タイムとはとてもすごいものらしい。

 

そして、人類に共通する暗黙の了解で。誰かが賢者タイムの只中にいる際は、その崇高な時間の邪魔は決して許されないという。

どんなに彼らと甘い会話がしたくとも、彼らの精神が見えざる崇高な小部屋から出てくるまで、辛抱強く待つほかない。

そう、こと賢者タイムに関しては、女性は完全に蚊帳の外。

どうやら我々女性には、賢者の部屋に出入りすることは許されていないらしい。

 

気分次第で抱くだけ抱いて

女はいつも待ってるなんて

坊や、いったい何を教わってきたの

私だって、私だって、疲れるわ

 

そうである、我々女は男たちの聖域、賢者タイムを前に為す術もなく、待ってばかりで疲れているのである。

そこで疑問を掲げたい。誰もが自明の理を盾に考えもしなかったであろう、この疑問。

はたして、女性に賢者タイムはほんとうにないのだろうか。

 

実は先日、思いがけず私はこの賢者の小部屋に足を踏み入れてしまった。

それはある土曜日の深夜。

ついさきほど初めての逢瀬を楽しんだ男の家からひとり帰る夜、私は奇しくもその部屋の中にいる自分を見つけた。

そう、私たちはいつもひとりで帰る。玄関で「また連絡するね」などとほざく男の家から、私たちはひとり帰るのだ。

その帰り道、女は研ぎ澄まされた思考で実に淡々とこう思う。

「やっちゃったなー。ま、いっか」

そこには湿った欲望や、無傷の幻想はない。ただ、ひとつの現実を垣間見たばかりの人間がいる。2本足で歩く呪いを課された、考える葦があるだけだ。

 

そう、女の賢者タイムは帰り道にある。

ひとり、男の家から帰る道の上に、あの小部屋への扉があらわれるのだ。

 

「やった後って割と『なんだかなー』だよね」問題

「昨日ついに○○とやったんだけどさ、なんだかなー」

「あーわかる。なんかさ、やった後って割と『なんだかなー』だよね」

「そうそう、あんまり上がることないよね」

「ないない」

 

ある雨の月曜日。会社で仕事をしつつ女友達と携帯電話で上記のやり取り。

その日は早朝6時に男の家を出て、タクシーで帰宅。そのままシャワーを浴びて地下鉄で出社。

何度かデートを重ね、とうとう日曜日の夜に彼のマンションへ一緒に行った。

久しぶりにすこし気になる相手だったこともあって、若干緊張しながら腕に抱かれた。

翌朝、昨日着ていた服を着てタクシーでひとり帰宅した。霧雨の月曜日の朝だ。

静かなタクシーの中で、まだ寝ているだろう女友達に連絡。

 

「昨日ついに○○とやったんだけどさ、なんだかなー」

 

悪くない夜だった。悪くない相手との悪くないセックス。

でも、それ以上の言葉が思い浮かばなかった。

 

「なんだかなー」

 

朝9時。新しい化粧と、クリーニングしたばかりの服を着て地下鉄に揺られている。いつもと同じ、新しい1週間が始まる景色。

つけていたイヤホンからはThe BeatlesのOb-La-Di, Ob−La-Da。

 

Ob-La-Di, Ob-La-Da life goes on blah

 

暇な視線は電車の中を見回す。

そこには幸福も不幸も見当たらない。分かりやすい喜びも、一風変わった悲劇もない。ただ、圧倒的な強度を持った現実があるだけだった。

ちょっとやそっとじゃ揺るがない、温度なき堅牢な現実。

 

ふと、むかし何かの本で読んだ話を思い出した。

Ob-La-Di, Ob−La-Daが収録されたLPが発売されたとき、和訳の歌詞カードにはこうあったそうだ。

「オブラディ・オブラダ。人生は続くよ、ブラの上で」

 

それを思い出すと、すこし肩の力が抜けた。

そうだよな、人生は続くよな。容赦なくこぼれ落ちる時間を一瞬でも堰き止めてくれるような魔法はそうそうにない。ときに運良くそんな魔法にかかっても、長続きはしない。

そう、何をしてもしなくても、ただ人生は続いていく。雨の月曜日にも、朝の地下鉄でも、気になる男の腕の中でも、そしておそらく、ブラの上でも。

 

生活を営むということ

ある晴れた日曜日、ひとりで道を歩きながらふと幸福を感じた。

近所のクリーニング屋で洋服を引き取った帰り道だった。

空がさきほどよりずっと青く、澄みわたっているように見えた。

 

手には預けていた愛用のトレンチコートと、ラインが気に入っているシルクのワンピース、それに長年着ているジャケット。

大事にしたいものを、大事にできている。

たぶん、それがこの幸福感を生んだひとつの要因だったように思う。

それから、おそらく、生活。

その日は朝から部屋の掃除をし、洗濯物を洗濯機に入れ、好きな音楽をかけながら熱いコーヒーを淹れた。コーヒーを飲みながら洗濯が終わる音を聞き、晴れたベランダに丁寧に洗濯物を干した。

気持ちよさそうに風に揺れる洗濯物を横目に、窓際で本の続きを読んだ。

そして、きりの良いところで近所のクリーニング屋に向かった。まだ午後3時だった。

 

何度めかの一人暮らしを始めて2年が経つ。

この幸福をずっと待っていたように思う。

 

「『丁寧な暮らし』なんて、嘘っぱちだ」みたいなことを誰かが言っていた気がする。たしか、鈴木いづみだったと思う。

20代前半の頃、これにひどく共感する私がいた。そして、それを地で生きていた。

丁寧な暮らしなんて、嘘っぱち。

故郷を離れ、東京にいながら自分の家すら持っていなかった。かっこいいことなんてひとつもなくて、さも当然のような顔をして知り合いや男の家を転々としていた。そんな自分を情けないなんて思うものなら、生きていられなかったように思う。

 

何も持ちたくない、何にも関係したくない。

そうぼんやりと思っていながら、でもほんとうはじっと何かを待っていた。ただ、霧みたいに曖昧模糊とした「違和感」の中で何かを待ち続けていた。

 

それから数年が経ったある晴れた日曜日。なんてことはないクリーニング屋の帰り道で、ずっと待っていた何かと出会えた気がした。

 

「おそらく歴史に名前なんかのこらないとわかっていても、やはり皿は洗わなければならず、日々をくりかえしていかなければならない。人間のほんとうの強さは、そういう部分からきているのではあるまいか、とわたしはおもっている」

これも、鈴木いづみが言った言葉だ。

 

私は、最後の部分にどうしても胸が熱くなる。

「人間のほんとうの強さは、そういう部分からきているのではあるまいか、とわたしはおもっている」

 

生活を営むこと、それは習慣のなかに身をおくことだと私は思う。

そして、習慣とは積み重ね以外の何物でもない。

今朝コーヒーを淹れれば、明日もコーヒーを淹れる。

今日は昨日のつづきで、明日は今日のつづきということ。

終わるまでつづく日々に、習慣を通じて絶えず自分を関係させること。

自分が強くならなくては、これはやっぱり続けられないように思う。

そして、これを続ける中で身につく強さもたしかにあるように思う。